2020年02月24日
■病気の考え方
ウパニシャッドの教え
その人の食べる物が純粋であれば、性質も純粋になる。性質が純粋になれば、記憶もしっかりする。しっかりした記憶を持てば、すべての束縛を断ち切れる、とウパニシャッドでは述べている。
心は摂取された食べ物からつくられる。食物の最も繊細な部分は上に登り、ハートに入り、そこから血管に入る。これに基づいて、言葉などの運動器官や感覚器官の全ての働きが生ずる。このようにして心は力を得る。食べ物によって強化された心は、物質であって永遠ではない。
ウッパニシャッドの哲学者は、心の生成には食べ物が必要だと考えた。「摂取された食べ物は三つの異なったものに転換される。粗大な思い部分は排泄物となる。中間の部分は血や肉となり、最も細やかな部分は心となる。」
ちょうどクリームを攪拌すると、細やかな部分が浮いてバターに変わるように、摂取された食べ物は、心に変えられるのだ。かの「バガヴァッド・ギーター」にも三つの性質が述べられている。サットワ(純粋)、タジャス(動的)、タマス(鈍い)である。この三つの異なった性質の食べ物の為だとされているのである。
心の質は食べ物の質に左右される
食べ物は、心と密接して直接の関わりがあり、心のあり方に重要な役割を果たしている。ラジャスの食物は心を興奮させる。サットワな食事は心を落ち着かせる。肉食獣であるトラと、草食の牛の性質の違いに注目しなさい。食べ物は心に重大な影響を与えるのである。
我々は日々、この事実を明確に見聞きしている。重い豪華な、消化のよくない食事の後で、心を支配するのは難しい。心は、サルのように、終始走ったり、さまよったり、飛び跳ねたりする性質を持っている。また、アルコールは心に非常に激しい興奮を起こす。
一方、食べ物は瞑想にも重要な役割を果たすことがわかる。良い瞑想をするためには、食べ物は軽く、サットワで、滋養のあるものでなければならない。体はアンナマヤという食べ物の鞘でできている。果物・ミルクなどの軽いサットワ食は、対象と主観の消えた状態、知る者、知ること、知られる者が消え去った。精神集中へと導いてくれる。
心の質が摂取する食べ物に依存している以上、瞑想生活を送る修行者や、俗世界のままの在家行者は、サットワな食生活を送るように最大の注意を払うことが必要である。
害のある食べ物・・・・・さまざまな食物は、脳の各部位に多種多様の影響を及ぼす。スパイスの効いた食物、酸っぱい物、玉ねぎ、ニンニク、ワイン、魚、肉、からし油などは情欲を盛んにする為、避けるべきである。修行者は特にこれらの食物は避けること。
宗教の修行者(サーダカ)は絶対に肉、魚、アルコールなどを摂ってはならない。これらの食べ物は心を俗にし、心を興奮させるから修行の妨げとなる。また、重い食事は、眠気と怠情(=怠け・ぐうたら)をもたらし、力を弱める。砂糖は適度に摂るべきで、できればやめた方が良い。
瞑想を助ける食べ物・・・・・ミルク、果物、アーモンド、氷砂糖、バター、オート麦、ヒヨコマメ、パンなどは、みな瞑想を助ける。ヒマラヤに豊富にあるカンダムーラは巨大な澱粉質の根菜であり、乾燥ショウガの粉は修行者にはとても良い。ミルクに入れて飲む。心は爽やかになり、消化を助ける。ヨーギーはこれを良く摂るのである。三つの果実の粉である。ホリタキ、アムラ、バハラを水に溶いてヨーギーは摂取するが、便秘によく、身体を冷やし、夢精に効く。ヨーガを行う者はよく、ホリタキを咬む。精液を保ち、夢精を防ぐ。塩なしで煮たり、火で焼いたジャガイモはとても良い。
ゆっくり、着実に
何事も急激に変わるより、ゆっくりと変わって行った方が良い。特に食べ物は、急に変えてはいけない。徐々に変えて行くべきである。体に反動を起こさせないような変え方が良い。自然は飛び越して前には進まない。ゆっくり、着実に、一歩一歩前進していく。
断食のしすぎは、体を極端に弱くする。これでは何の修行もできない。正しく考えることができなくなり、論理的にものを考えたり判断できなくなってしまう。何でも自分に合った食物を摂って良い。あまりこだわらないことである。簡単に手に入って、自分の体に合っていれば、どんな食物も害は及ぼさない。
いつ食物は必要でなくなるか
食物はエネルギーの塊である。水は体にエネルギーを補給し、空気もまた、エネルギーを供給する。我々は何日間も、食べ物なしでも生きられるが、ほんの数分間でさえ、空気なしでは生きられない。酸素はさらに重要である。体を維持するのに必要なのはエネルギーそのものである。仮に、もし他からエネルギーを摂取できれば、食物はまったく要らないことになる。
ヨーギーはネクター、すなわち甘露を飲むことによって、食べ物なしで体を維持することができる。ニャーナ・ヨーガでは、純粋で強力な意志の力で、直接宇宙の源からエネル儀0を得る事ができ、食べ物なしに体を維持できるといわれている。いったん、宇宙のエネルギーから直に必要なエネルギーを得る方法を知れば、このエネルギーだけで、どんな長時間でも体を維持できるようになる。
蜜蜂のような乞食
心は食べ物の細やかな部分からなっていると先に述べた。心は食物を与えてくれる人に執着する。例えば、友人と一緒に、一、二ヶ月間一緒に住んで、食事を共にすれば、心は食物を与えてくれる友人に執着するようになる。このため、サンニャーシン、すなわち修行者は、常に四、五軒の家から食べ物の施しを受ける。
そうすることで執着を離れて、村から村へと托鉢の旅をするのである。これが蜜蜂の乞食である。巡礼生活の間は、一つの村に一日以上留まってはならない。すぐれた修行者はこのような施し物で生活し、心はガンガーの水のように清く、どんな執着からも完全に自由である。
対象に執着することは、束縛につながる。不自由に束縛されると、行きながら死の苦しみを味わう。だから、執着は諸悪の根源である。執着を捨てた時、明かりが見える。
(シルディー、サイババに頭を垂れよ − 皆に平安が訪れますように)
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