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2020年02月25日 [Default]

シルディーサイババ物語

 タナ地区のマムラトダールを退職したサイババの熱心な帰依者であるB.V.Dev氏は、この件でサグン・メル・ナイクとゴヴィンド・カムラカール・ディクシットに照会を行って、”Sai Leela” Vol.11, No.I 25項にパドゥカ据付の物語の完全版を掲載した。内容は次の通りである。

釈迦歴1834年(紀元1912年)、ムンバイのドクター・ラムラオ・コターレがババのダルシャンを受けにシルディにやってきた。彼の調合師と彼の友人のバイ・クリシュナジ・アリバグカールが彼に同行した。調合師とバイはサグン・メル・ナイクとG.K.ディクシットと親しくなった。彼らは色々と議論をしているうちに、サイババが最初にシルディに現れ、聖なるニームの木の下に座ったという何かしらの記念碑を作らなくてはならないと考えた。


彼らはババのパドゥカをそこに据付けようと考え、石でおおまかな形を作ってみることにした。そしてバイの友人の調合師は、もしこの件が彼の主人のドクター・ラムラオ・コタレの耳に入れば、彼は立派なパドゥカを用意してくれるだろうと提案した。皆がこの提案を気に入ったので、ドクター・コターレに連絡を入れた。

彼はシルディにやってきて、パドゥカの図面を描いた。彼はカンドバ寺院のウパサニ・マハラジを訪ねて、彼にその図面を見せた。マハラジは多くの修正を行い、蓮、花、巻貝、円盤、矛等を描いて、ニームの木の偉大さとババのヨガのパワーについてのスローカ(詩篇)を刻むよう提案した。詩篇は次のようなものであった。

“我、主サイナスに頭を垂れる。辛く不快な時も、常にニームの木の根元に座して、
甘露が滲み出るようにして下さった(この木から滲み出るものは“アムリタ”と呼ばれ、癒しを行う甘露である) − カルパヴルクシャ(願いを叶える木)よりも優れたお方。”

ウパサニの提案が認められ準備が進められた。パドゥカはムンバイで製作され、調合師によってシルディに送られた。ババは、シュラヴァン月のプルニマの日(15日)に据付をするのがよいと言った。その日の午前11時、G.K.ディクシットはカンドバ寺院からドワルカマイ(マスジッド)までの間、頭にパドゥカを乗せて行進した。ババはパドゥカに触れて、これは主の御足であり、ニームの木の根元に据付をするようにと人々に言った。

これに先立って、ムンバイのパルシー教徒の帰依者パスタ・シェスが郵便為替で25ルピーを送っていた。ババはこのお金をパドゥカの据付に使った。据付にかかった合計の費用は100ルピーで、そのうち75ルピーは寄付金でまかなわれた。最初の5年間は、G.K.ディクシットが毎日のパドゥカ礼拝していたが、やがてこれはラクスマン・カチェシュワール・ジャカディが行うようになった。

最初の5年間、ドクター・コターレはランプを灯す費用として月に2ルピーを送っていたが、パドゥカを囲む柵の費用も払った。柵を駅からシルディに運び(7-8-0ルピー1、現在の価値にして7.50ルピー程度)、屋根を付ける費用はサグン・メル・ナイクが支払った。現在はジャカディ(ナナ・プジャリ)が礼拝を行い、サグン・メル・ナイクがナイヴァイディア(甘いお菓子を供えること)と夜のランプの点灯を行っている。

バイ・クリシュナジは元々はアッカルコット・マハラジの帰依者であった。彼は釈迦歴1834年、アッカルコットに行く途中にパドゥカの据付の時にシルディにやってきた。彼はババのダルシャンを受けた後は、アッカルコットに行きたいと思っていた。彼がこの許可をババに願い出ると、ババはこう言った。「おや、アッカルコットとはどこだね?君はなぜそこに行くのかね?彼の地のマハラジはここにいる。私自身だ」これを聞いてバイはアッカルコットへいくのをやめた。パドゥカの据付の後も、彼は時々シルディにやってきたのだった。

B.V.Dev.氏は、ヘマドパントはこうした詳細を知らなかったと結んでいる。知っていれば、彼は”サッチャリタ”の中でこうした出来事について記述しないはずがない、としている。

(シルディー、サイババに頭を垂れよ − 皆に平安が訪れますように)

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