2020年02月25日
癒しの森湯布院ブログ
サグン(顕現した)・ブラフマンとしてのサイ
神またはブラフマンには2つの側面がある。(1)顕現していない(ニルグン)場合、(2)顕現している(サグン)場合。ニルグンは形がなく、サグンは形を持つ。どちらも同じブラフマンを示している。ある者は前者を礼拝するのを好み、ある者は後者を好む。ギータ(十三章)に述べられているように、後者を礼拝する方が容易で好ましい。
人は形を持っている(肉体、感覚など)ので、形ある神を礼拝するのは自然なことである。私たちの愛と信仰心は、ある一定の期間は顕現したブラフマンを礼拝しない限り成長することがなく、私たちの成長する過程でやがて顕現していないブラフマンを礼拝(瞑想)するように導かれていく。
だからサグンを礼拝することから始めよう。像、祭壇、火、光、太陽、水、ブラフマンは礼拝の7つの対象である。だがサドグルはこれらより尚良い。この機会に私たちの心に、無執着の化身であり、帰依者のための安息所であるサイの姿を思い浮かべよう。彼の言葉を信仰することはアサンである。
私たちのサンカルパ(プジャを成し遂げるという決意)は私たちの欲望を放棄するものである。ある者はサイがバガヴァッド・バクタ(主の帰依者)であると言い、別のものは彼はマハ・バガヴァッド(偉大な帰依者)であると言った。だが私たちにとって彼は主の化身である。彼は常に許し、イライラすることなく、率直で、穏やかで、忍耐強く、満ち足りていて、比類のない方だった。
彼は具現化して(姿を持って)いるように見えたけれども、本当はそうではなく、感情はなく、執着もなく、内面は自由であった。ガンジス河は海に至る途中で、暑さに冒された生き物たちを冷やして元気付け、作物や木々に命を与え、大勢の喉の渇きを潤している。同様にサイのような聖者も、生きている間に、皆に慰めと安らぎを与えてくれる。主クリシュナは、聖者は私の魂であり、私の生きる偶像であり、私は彼であり、彼は私の純粋な形(存在)である、と言っている。
この名状しがたいシャクティ、神の力が純粋な存在として、知識や至福として、シルディのサイの姿に化身したのである。シュルティ(タイッティリヤ・ウパニシャド)はブラフマンを純粋な至福であると記述している。このことを私たちは本書で毎日読んだり聴いたりしているが、信心深い人々はこのシルディのブラフマンや至福を体験したのである。
万人の支持者であるババは、誰からの支援もアサンも必要としなかった。彼はいつもバクタたちが用意した小さな敷布団の付いた椅子にかける布切れと、背中を休める長枕を持っていた。ババは帰依者たちの気持ちを尊重し、彼らの好きな様に礼拝することを許した。ある者は彼をチャマールという扇子で扇ぎ、ある者は楽器を演奏し、ある者は彼の手足を洗い、ある者は香やチャンダンを焚き、ある者は葉に包んだビンロウジを送り、ある者はナイヴァイディヤを捧げた。
彼はシルディに住んでいるように見えたが、どこにでも存在していた。彼の普遍性は毎日、帰依者たちが体験していた。この遍在するサドグルに謙虚にひれ伏そうではないか。
〒879-5101
大分県由布市湯布院町塚原135