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2022年06月20日 [聖者]

NO650・・・建設の準備

NO650・・・建設の準備

 日本に帰り着き、会社の仕事を終わらせいよいよ建設の準備である。私は若いころから50歳になったらすべてを整理して山に籠る計画をしていました。事業もしたくてしたのではなく、私を慕ってくる人が増えるので、その人達の為に店を増やして行ったのであり、その店舗は将来社員に買い取って頂く計画であったので、普通の会社経営のシステムは行わず、半分は店長の店にしていたのでインドにも行く事が出来たのです。



 シバ神の地下洞窟で、スワミがウッシーにガネーシャ神のアートマリンガムと正観さんがシバ神のアートマリンガム・私が火と水が出るスティックの子供を伝授された時、スワミは「今後私たちは、飛んでもない事が起きることになっている。多くの人から誹謗中傷されるようになるだろう。そして、私の側から、お前たちは逃げ出したくなるだろう。それは、構わないが、決してババから離れてはならない。良いな!約束だ。そして時期が来たらババは私たちの一番大事な宝を奪い去るだろう。覚悟が必要だ。嫌なら今降りなさい。」が、スタートで始められた計画だったのですから、怯むことなはありませんでした。



 私の一番大事なものとは何か?その後もずっと考えていたのですが、命と言えば命だが、それほど執着はない。ゆえにインドの危険地帯やアジアの危険地帯の聖者探しの旅も心配はしなかったのである。その頃は、もう全てはババの掌の中でもがいてもどうにもならない世界がある事がわかり始めていたので、危険な崖伝いに走るタクシーに乗っても、人よりは心配しなくなっていた。落ちたら、落ちたで、何かのババの意志があって、そうなったのだろうと思えるようになっていた。



 家族でもない、家でもない、お金でもない、全てそうだが、宝と言えるようなものではない。いずれは消えてなくなる物ばかりである。この時、気が付いたのだが、私の宝は「信用」だと言う事に気が付いたのです。私は貧乏な家に生まれた。親の保証も期待できないので銀行からの借り入れは無理であった。200万円を親戚の高利貸から借りて、小さな日本で一番小さな薬屋を始めたのが26歳で、すでに家族があった。当時の高利貸の金利は年間一割であった。



 

 それはゆっくり払う事にし、後の全ては約束通り実行していった。約束したことは絶対守るをモットーに行っていた。そして個人的贅沢は絶対しない事を実行していた。次に名誉や地位は求めない事であった。これを実行していたある日、娘がポツリとこぼす。「お父さん、友達がな、〇〇ちゃんのお父さんは社長なのに、どうしてこんな家に住んでいる」のと言われたそうだ、ピアノを置く部屋もない家であった。私は答えた。それは貧乏だからだと答えた。当時、大分県では1,2を争う規模だったのだが、成り上がりの娘にはしたくなかったので、その後も絶対贅沢はさせなかった。



 常に質素に生活を行い「信用」を作って行った。友達に用立てて頂いたら必ず期日までに払い、いらないという利息も添えて払った。問屋に対しても一回もジャンプをお願いしたことはない。ジャンプとは手形の期日を一か月飛ばして頂く事で、結構多くの同業者は簡単に頼んでいたが、私は決して甘える事はしなっかったいうより、将来の事を考え、手形の期日を短縮し、現金決済を目標に頑張っていた。



 その努力が実ったのか、問屋からは、全幅の信頼を得るようになっていき、今のスワミとの関係のようにお互いが協力しあえる共同体のような関係になって行くのであります。スワミと約束したことは、お金のことであろうが、何であろうが最大限の努力をして守ってきた。スワミが1000万円必要だと言えば1000万円用立てしていた。スワミの声はババの声と思い全力で頑張った。



 ゆえに、私が湯布院にアシュラムを建てると思えば、お金はいつでも1000万円や2000万円は貸して頂ける信用を確立していた。土地は2〜3年前に3,300坪購入し、一部の700坪を使い、息子が貸別荘を経営していた。このお金も銀行は借りてくださいで即決であった。スワミが日本に来た時は、この別荘に泊まって頂くので非常に便利だったのだ。



 その後、半年をかけて私と大工さんで建設を始めることにした。この建設もそうであるが、絶対贅沢なものは建てず、自分の身を粉にして建てるべきだと思っていたのであります。目的はスワミを招致する事なので豪華なアシュラムは必要ない。身の丈に合った物で十分だ。最初のスワミ来日の時に打ち合わせの内容に宿泊、食事、交通の事などが話し合われた。当然スワミはインドで逃げ回っているので、交渉は現地通訳のセット氏を通じて行われていた。時にはインドの逃避先まで行き、打ち合わせは行われていた。



 私は、良いホテルや良い車や良い食事を求めて日本に行くのではない。ジョブ(仕事)で行くのだ。食事は果物があればよい。寝る所は雨風が凌げれば良い。車は走れば良い。私は感動した。これが本物の聖者だと思った。それが年数が経つにつれ、アシュラムから変な情報が流れるようになる。アメリカの思想が入った情報を聞くようになる。KEMZOは日本でスワミを粗末に扱っている。ビジネスホテルに泊めている。その通り、正確にいえば、日本のホテルの良いクラスのホテルがであるがコンチンネンタルホテルではない。雨風は凌げる立派なホテルである。



 何を文句言うか、そんなのにお金を使うなら参加費を安くせよである。これはババも同じあろうと確信を持っていたので、その後も曲げることはしなかった。聖者とは、何かを問わなければならない。これが10年後に大きな問題に発展していく事は、この時点では誰も知らなかった。アメリカ人は何処まで行っても上から目線である。それに黙って従う私ではない。常にババを見続けなければ道を誤るのであります。たとえ、スワミが居ても見るのはババなのです。多くの者は、この意味さえ理解できなかったゆえに今があるのです。



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